史上最も残虐な17世紀ドイツの刑務所「魔女の家」とは?
17世紀のドイツ・バンベルクには魔女として告発された人を収容し、拷問によって自白と新たな告発を引き出すための専用刑務所が存在しました。拷問を受けた人が知人の名前を挙げ、その人も逮捕されるという連鎖や、処刑された人の財産が次の魔女裁判を支える仕組みについて、科学系の情報をアニメーション動画で紹介するYouTubeチャンネル「Kurzgesagt」が解説しています。
When Death Was a Relief - YouTube

中世の魔女狩りでは、両手を背中側で縛ってつり上げる「ストラッパド」と呼ばれる拷問など、苛烈な手段が用いられていました。
足には重りが付けられ、気を失っても水をかけられて拷問が再開されるという耐え難い苦痛の中で、女性は悪魔と踊ったことや作物を枯らしたことを認め、共犯者として近所の人や友人、家族の名前を口にしたとのこと。そうして告発された人も同じように拷問されて別の名前を挙げるため、魔女とされる人は際限なく増えていきます。
ヨーロッパでは古くから、病気を治したり失くし物を見つけたりする力を持つとされる民間の術者が存在しました。15世紀になると、異端審問官のハインリヒ・クラーマーが「魔女は悪魔と契約してキリスト教社会を破壊する」と主張し、民間の術者を魔女として非難します。そして、クラーマーが1486年頃に出版した「魔女に与える鉄槌」は、魔女の見つけ方や尋問方法などを記した手引書として広まりました。
16世紀に宗教改革が始まると、神聖ローマ帝国はカトリックとプロテスタントの諸領邦に分かれて対立を深めました。そして1618年に三十年戦争が始まり、兵士による略奪や疫病で人々の暮らしが悪化。さらに小氷期の寒さで不作が続き、1626年5月には異常な霜がバンベルク周辺の畑に大きな被害を与えました。その結果、人々は相次ぐ災難の原因を魔女に求めるようになります。
当時のバンベルクは神聖ローマ帝国に属するカトリックの司教領で、領主と司教を兼ねるヨハン・ゲオルク・フックス・フォン・ドルンハイムが統治していました。フックスは住民から魔女を取り締まるよう求められると、7人の法律家からなる魔女捜査委員会を設置。委員のエルンスト・ヴァゾルトは、魔女狩りを進める中心人物となりました。
ヴァゾルトらは悪魔との契約や魔女の集会について尋問し、容疑者が認めなければ指締め器や脚締め器、ストラッパドを使いました。容疑者は拷問を一時でも止めてもらうために知人の名前を挙げ、やがて告発は貧しく社会から孤立した女性だけでなく、町の裕福な人々にも及びます。
1627年4月にはバンベルク市長の妻であるクリスティーナ・モアハウプトが逮捕されました。
Kurzgesagtによると、有罪となった人に子どもがいる場合は財産の5分の1、子どもがいない場合は半分、相続人がいなければ全財産が没収され、その収益の3分の1が裁判官や処刑人に渡ったとのこと。没収した財産を使って新たな魔女裁判が開かれるため、魔女狩りを続けるほど関係者と領政府が利益を得る状態になっていました。
逮捕者が増えて既存の牢獄に収まりきらなくなったため、フックスは1627年夏、城壁沿いに2階建ての専用刑務所を建設しました。
「魔女の家」と呼ばれたこの刑務所には、2本の廊下に沿って26室の狭い独房と、複数人を収容するための大部屋が2室設けられていました。
看守の部屋には暖房用のタイル張りストーブがありましたが、囚人は寒い石の上で過ごしたとのこと。施設では拷問による自白と新たな告発が繰り返され、自白した人々は火あぶりにされるか斬首された後に遺体を焼かれました。Kurzgesagtは魔女の家について「次の容疑者を次々と生み出して自らを維持する装置」だと表現しています。
バンベルクの行政を担う宰相であるゲオルク・ハーンは、拷問には証拠が必要であり、強制された自白は認められず、被告には上訴する権利があるとして魔女裁判の進め方に疑問を抱き、評議会でも異議を唱えていました。
しかし、ハーンが帝国最高法院に訴えるため町を離れている間に、妻のカタリーナと娘が逮捕され、拷問を受けた末に処刑されました。その後、ハーン自身と息子も逮捕され、息子のゲオルク・アダム・ハーンが拷問の末に市長のヨハネス・ユニウスの名前を挙げたため、次はユニウスが逮捕されることとなりました。
ユニウスは無実を訴え続けましたが、体を調べた捜査官は脇腹にあったクローバー形の青い痕を「悪魔の印」とみなし、指締め器や脚締め器、ストラッパドで拷問しました。そして拷問から5日後、ユニウスはついに悪魔との契約を認めて他の人々の名前を挙げます。
ユニウスは処刑を待つ間に娘のヴェロニカへ宛てた手紙を書き、看守に頼んで刑務所の外へ持ち出させました。この手紙にユニウスは「無実のまま刑務所に入り、無実のまま拷問され、無実のまま死ななければなりません。魔女刑務所に入った者は魔女になるか、頭から何かをひねり出すまで拷問されます」と記し、自白した内容はすべて作り話だったと明かしました。
このように、魔女狩りに反対した行政官や市長を含む町の有力者と、その妻や子どもまでが相次いで処刑されました。それでも処刑と新たな逮捕は続きます。状況が変わるきっかけとなったのが、妊娠中に逮捕された市参事会員の妻であるドロテア・フロックの事件です。夫と親族は神聖ローマ皇帝であるフェルディナント2世に救援を求め、皇帝はフックスに対してフロックを釈放するよう繰り返し命じました。しかし命令は無視され、フロックは出産後の1630年5月に斬首されました。
フロックの遺族は他の犠牲者の家族や魔女の家から逃れた人々の証言を集め、皇帝へ提出しました。ちょうど三十年戦争でスウェーデン軍が南下しており、領内の混乱を放置できなかった皇帝は裁判記録の提出と新たな逮捕の停止を命令。さらに1631年6月には、1532年制定の刑事法典「カロリナ刑事法典」に従い、根拠のない拷問や財産没収をやめるよう求めました。
1631年末にスウェーデン軍が迫ると、フックスはオーストリアのシュピタール・アム・ピュールンへ逃亡。
1632年には魔女の家に残っていた囚人が、「拷問について口外しない」と誓わされた上で釈放されました。そして、フックスは裁判にかけられることなく1633年に死亡しています。バンベルクの魔女裁判では数百人が処刑されたとみられますが、記録が完全には残っていないため、正確な犠牲者数は分かっていません。
Kurzgesagtは最後に、魔女と告発された人への暴力は現代でもサハラ以南のアフリカやインド、パプアニューギニアなどで起きており、標的となるのは女性や高齢者が多いと指摘。病気や不作、経済的な苦境への恐怖が共同体の内側に向かい、最も責めやすい人を災難の原因に仕立て上げるという流れは今も変わっていないと締めくくっています。
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